小島てつを「人生が見えるから俳句は面白い」ブログ版

最近、最新の優れた俳句とその作者を紹介し、俳句の幅の広さ、その奥深さを堪能していただけましたらありがたいです。これをきっかけに俳句を作る人がふえてくれたら、最高です。

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檀一雄はいろいろな小説を書いてきた作家だ。ロマンに富んだ放浪ものや実体験をもとにした評伝や恋愛ものがあるかと思えば時代小説も書いている。
晩年の大長編「火宅の人」は、今まで書いてきた私生活ものの集大成といってよく、大変売れて、のちに映画化もされ話題を呼んだ。
掲句は、亡くなられる際、ベッドで書かれた遺句ということで報道された。筆者もそう記憶している。「花に」の「に」がカタカナの「ニ」で書かれていたため、その表記で各紙誌に紹介され、その表記がその後ずっと踏襲されて来ている。
モガリ笛が毎晩聞こえてくる。モガリ笛は、虎落笛と書く。冬の、柵や窓に当たりヒューと鳴くような激しい音がすることあるが、その不気味な音を言ったもので、冬の季語。自分はもう直ぐ死ぬのだ。今夜なのか、明日なのか。まもなくお迎えがくる。だが、死んでも美しい花に逢いたいものだ、そんな花園に行けたらいいな、という願望の気持ちを、彼らしくストレートに詠んだものである。
1976年、63歳で亡くなった。その死はあまりに早く訪れた。女優の檀ふみさんは娘さんである。

いまの「ホトトギス」は、古風な正統の伝統俳句を作る方と、思い切って冒険したような句を作る方がいるように見受けられる。大所帯ゆえのふところの広さがあるからできることであろうと思う。さて、掲句である。「花の門」とは、あまり具体的な花(桜)のイメージとはつながらない。どちらかというと観念的。要するに、なにもわからぬまま、魅せられた花鳥諷詠の俳句の門をくぐってしまったわたしだが、そこには高濱虚子という大きな存在がおり、わが歩むべき道のしるべとなって道を照らしてくれているのだ、という句。決意と覚悟の感じられる句である。内面にみなぎるものは伝統俳句礼賛だが、「花の門」などという言葉を使った俳句としての大胆さは新鮮。「道標」は「みちしるべ」と読む。円虹2019.6

鶏が砂浴びをしているというのだから、
陽光もたっぷりと降り注いでいる日中であろう。ゆったりと時間が流れているのどかな昼の光のなか、鶏は「くう」という声を出して鳴いたというのだ。意味のない声のような気がする。意味のない声を発したというところに、この鶏の至福が込められていると思う。柔らかい言葉で表現したことによって、いかにも流れている時間ののどかさというものがよく表わされているのである。
秋麗2019.5

干潟は潮の引いたあとの砂浜のこと。波が砂浜に自然の造形をほどこす。この句の作者は、それら干潟を高みから俯瞰して見ているから、目のようだとなる。目は、いきいきとして輝いているに違いない。自然の造形には、人間はどうやったって、かなわないのである。美しい句だ。対岸2019.5

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