小島てつを「人生が見えるから俳句は面白い」ブログ版

最近、最新の優れた俳句とその作者を紹介し、俳句の幅の広さ、その奥深さを堪能していただけましたらありがたいです。これをきっかけに俳句を作る人がふえてくれたら、最高です。

カテゴリ: 俳句 花

作者名は「あおやぎ・しげき」と読む。青柳さんは、若き日、郷里の長野県から東京に出て来られ、造園業を営むかたわら「鹿火屋」で俳句を学ばれた。植物に対する造詣は深く、多くの俳句歳時記で植物の解説を書かれている。
さて掲句、言わんとすることは、よく分かる句である。
里山というから里続きの山林が、今まさに朝を迎えんとしている。あたり一面急に明るく感じられてきた。しかし、よくよく見ると、いちばん明るさを振りまいているのは木の芽だという。木の芽から朝日が生まれているのだという。里山という大景から焦点を絞っていくと、さいごは極小の木の芽に至るという構図である。
木の芽そのものは、本格的な春を迎えてこれからどんどん枝葉をはぐくみ伸ばして、里山全体を新緑に染めあげていく力を秘めているのだ。そのため大いなる生命力を芽の中に蓄えつつある最中なのである。
この句、まぎれもなく植物に対する生命賛歌の句であり、自然賛歌の句なのである。

作者名は「あいおいがき・かじん」と読む。
1976年、角川書店の振興財団が主催する第10回蛇笏賞の授賞式で、授賞された相生垣さんのお姿を拝見したことがある。 
庶民的で物腰柔らかな方ながら、どこか仙人のような浮世離れした雰囲気ももっておられる方だと思った。
節分の豆まきの豆を、年齢の数だけ食べると、1年間息災でいられるという風習がある。掲句は、八十粒というから、作者80歳の時の作ということになる。
令和2年の現在は、80歳ぐらいで「恐るべき」という驚きはないが、この句が作られたおそらく40年以上前には、「もう80歳?」と、あらためて自分の年齢に驚いた気持ちが言わしめたのだろう。そんな「恐るべき」であるが、いささかユーモア心も感じられる。
今言うなら「百粒」ぐらいになるのであろう。
いずれにしても、人の寿命というものは自分で決められない授かりものだ。
長寿を寿ぐことは、それだけでもめでたい。節分の豆まきは大きな神社の年中行事として賑わいを見せているが、個人宅での豆まきは、少子高齢化のせいか、残念ながら減りつつある。

俳句では「紅葉」も「黄葉」も、ともに「もみじ」と読む。句会の披講(採られた作品が読み上げられる)では、読み上げられる音声だけだから、わからないことになる。このように、文字で見て初めて意味の違いがわかる句なのである。
俳句は、いまや句会だけが発表の場ではない。総合誌、結社誌などの活字媒体に発表されることも多く、当然、目から入ってわかる俳句の面白さがあっていい。
この句、結果的に、上五、中七、下五ともに「もみじ」という音が繰り返される。中七は紅葉しない山に焦点を当てている。下五の「黄葉」は文字通り赤ではなく黄色く色付いたもみじをいう。
山の「もみじ」にはいろいろな姿かたちがある。
いろいろな姿かたちをした「もみじ」をトータルに見ることで、一つの山が見えてくることだってある。雄大な山の全景が、こうして立ち現れるのである。
「栴檀」2020.2

この句の前書きに「十二月二十一日、父脳溢血で倒れる」とある。
森潮さんといえば、この句のあと、倒れた父、澄雄先生の介助で長い歳月を過ごされたことを思い出す。
われわれには先生の話される言葉が聞き取れないのである。一生懸命話されるのだが、語彙が明瞭に聞き取れないため仕方ないのだが、潮さんは、話される口元をじっと見て言葉をみごとに復元してくださったのである。そういう型で倒れられたあとの澄雄先生と会話ができた。
その澄雄先生が亡くなって10年が経つ。そして息子さんである潮さんが、このたび平成元年から22年までの作品をまとめた第一句集「種子」を刊行した。(文學の森刊)
「うるみつつ老いの瞳」という捉え方は、病いに倒れた老いた父の表情というものを冷静に観察して描く俳人の眼を感じる。
身近な人を俳句に彫琢することは、案外難しいのだが、潮さんは俳人としての大家であった父と、親子という枠を越えて、魂の介助者として付き合うなかで、俳句の本質を会得していったのではないかと思う。この句もそうだし、この句集にはそう思わしめる句がまだまだ散見できる。
まずは俳人森潮の誕生を祝いたい。
ただ、帯に掲げてある

我もまた一つの闇か胡桃の実

は、「一つの闇」という観念的な言いが気になる。何に対する「一つ」なのだろうか。しかも「闇」である。暗喩であるぶん、哲学的な雰囲気が強い。ふと岡井省二さんの句を思い出した。
私が惹かれたのは、むしろ具体的な、

父母に父母のあり彼岸花
末黒野の先に照りゐる寺の塔
光年の星にも吹くよ秋の風

などである。


「落葉掃く」作業というのは、それはそれは「気持ち(の穏やかになって)澄む(澄みきる・心静かになる)ところまで」やるものなのです、というのが句意。
もちろん、この句、たれに強要されるわけでもなく、自分自身に語りかけているのだ。
心が澄むまでになるには、ある作業に徹底的に埋没しなくてはなるまい。
俳句を詠む(作る)作業などというものは、いくら時間をかけても、むしろ心騒がせるところがある。創造的(クリエイディブ)な、複雑な作業というものはなかなか終わりが見えないからだ。
打ち込むこと、のめり込むことで現実を忘れることができる。そうやって無我の境に入ることができるのは、案外単純作業であることが多い。
現実を忘れることで、心は雑念を払い、限りなく澄んでゆくことになる。仏教でいう解脱の境地であろうか。「気持ち澄みゆくところまで」とは、願望であろう。掃除に対してそのような効用を見出している作者なのである。
「繪硝子」2020.2

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