この句の前書きに「十二月二十一日、父脳溢血で倒れる」とある。
森潮さんといえば、この句のあと、倒れた父、澄雄先生の介助で長い歳月を過ごされたことを思い出す。
われわれには先生の話される言葉が聞き取れないのである。一生懸命話されるのだが、語彙が明瞭に聞き取れないため仕方ないのだが、潮さんは、話される口元をじっと見て言葉をみごとに復元してくださったのである。そういう型で倒れられたあとの澄雄先生と会話ができた。
その澄雄先生が亡くなって10年が経つ。そして息子さんである潮さんが、このたび平成元年から22年までの作品をまとめた第一句集「種子」を刊行した。(文學の森刊)
「うるみつつ老いの瞳」という捉え方は、病いに倒れた老いた父の表情というものを冷静に観察して描く俳人の眼を感じる。
身近な人を俳句に彫琢することは、案外難しいのだが、潮さんは俳人としての大家であった父と、親子という枠を越えて、魂の介助者として付き合うなかで、俳句の本質を会得していったのではないかと思う。この句もそうだし、この句集にはそう思わしめる句がまだまだ散見できる。
まずは俳人森潮の誕生を祝いたい。
ただ、帯に掲げてある

我もまた一つの闇か胡桃の実

は、「一つの闇」という観念的な言いが気になる。何に対する「一つ」なのだろうか。しかも「闇」である。暗喩であるぶん、哲学的な雰囲気が強い。ふと岡井省二さんの句を思い出した。
私が惹かれたのは、むしろ具体的な、

父母に父母のあり彼岸花
末黒野の先に照りゐる寺の塔
光年の星にも吹くよ秋の風

などである。