小島てつを「人生が見えるから俳句は面白い」ブログ版

最近、最新の優れた俳句とその作者を紹介し、俳句の幅の広さ、その奥深さを堪能していただけましたらありがたいです。これをきっかけに俳句を作る人がふえてくれたら、最高です。

2020年02月

隠岐島は島根県の離れ小島のようなところがある。歴史的に見ても、隠岐島は後醍醐天皇を幽閉したてまつった辺鄙なところということになっている。
もちろん、今は、そこに生活する人はたくさんいるのだろうが、人口密度からいえば、本土の比ではない。むしろ、隠岐島は牛の方が多いかもしれない。
そんな島に、雷鳴が轟き渡る。雷鳴は、その稲光や轟きに人間は萎縮するが、驚きもしないものがいるという。それが、牛なのだというのだ。
牛は、一見、鈍感そうに見える。が、案外神経質な生き物である。
だが、雷鳴ぐらいではたぢろがない。
人間だとそうはいかない。
臆病な人間と、逆にたくましく生きている牛との交流が、隠岐島には今も息づいているのかもしれない。
「馬酔木」2020.3


山の上にある神社仏閣の山門などに、大きな草鞋が架けられていることがある。
いうまでもなく、草鞋で峰をすたすたと自在に登り降りした山伏が、信仰の対象になった宗教からきたもの。
詳細は分からないが、奈良時代以前、役行者(えんのぎょうじゃ)に始まるといわれる。
筆者は子どものころ、あの大きな草鞋を初めて見たとき、こんな大足の人がいるのかと単純に驚いた記憶がある。もちろんそんな人間はいないということは、年を取るに従ってわかってきたことが。
この句は、あの草鞋に触発され、「春泥を踏め」といわれているようだと見たのである。架かっているのは、迫力ある仁王さまが立つ仁王門だ。
仁王さまだから言い方はまさに命令形。ふつうならイヤだと思うかもしれないが、春の泥は、厳しい冬をのり越えてきて、なんとなくやわらかく、まだしっとりとしているもの。その感触はくすぐったいくらいである。
そういった感触からくるかすかな喜びを感じさせる「春泥を踏め」なのである。ユーモアのある一句。
「太陽」2019.6


読売新聞「読売俳壇」から。
今日(2020.2.17)の読売俳壇の正木ゆう子選で評されている句を取り上げる。
「駅ピアノ」とは、いうまでもなく作者か駅員、またはマスコミの造語であろうが、理解できる言葉である。
駅の構内にピアノが置かれている。きっとたれでも自由に弾けるのだ。ふらりと立ち寄って、弾く人がいる。もしかしたら、それを立ち止まって聴く人もいるかもしれない。そんな「駅ピアノ」だ。
「置けば / 弾く人」は因果関係をあらわしている。置かれたピアノは、弾く人を引っ張ってくる力がある。
正木さんも「置けば」がいいという。
「置けば、弾く人が吸い寄せられる。メロディーが花開く」
と評している。
この句の読者、弾く人とはどういう人かと一瞬想像してしまう。
そこに「冬のばら」が登場する。「冬のばら」から、どういう人を想像するだろう。結論は読者に委ねられる。そこに余韻が生まれる。

この句、上五「花の冷え」は季語ながら、すべてがこの言葉に収斂していく俳句だ。
花の冷え、つまり「花冷え」は、桜が咲いているころ、急に訪れる寒い陽気のことをいう。この句、そのように寒い桜の下で、友人と話をしていたのだろう。
花冷えが言葉を包み込むというのだから、どちらかというと、あまり愉快な話題にはなっていないようだ。もしかすると、言葉は途切れていたかもしれない。本来あるべき言葉が、小説などで表現されるような「・・・」だったともいえる。
中七、下五の「人の言葉を包み込む」、「花の冷え」とは、ちょっと複雑な心境小説を読むような深さがあると思うが、どうだろう。
読売新聞(2020.2.3)俳壇欄の書評に載っていた句集「ふりみだす」の1句。

今年版の角川俳句年鑑を読んでいたら、この句に出会った。
作者は平成6年生まれというから、まだ二十代だ。二十代の感性が詠んだ女性の、母性を感じさせる俳句である。
「乳房に触れ」た我が子、その「子の手つめたし」、つまり、冷たい、と感じ驚いた作者。冷たさを温めてあげたいと思うのは母親として自然のこと。子にとって、母親のお乳はいのちを温めてくれるにちがいないと無意識ながら感じたかもしれない。
季語は「花の昼」、桜が満開ごろのお昼どき。ゆったりとした時間が流れ、春の日差しがあふれるひとときがある。そこにいるのは、若い母と幼い児だけだ。この、こころ温まるひとときを大事にしたいと母は思ったはずである。



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