小島てつを「人生が見えるから俳句は面白い」ブログ版

最近、最新の優れた俳句とその作者を紹介し、俳句の幅の広さ、その奥深さを堪能していただけましたらありがたいです。これをきっかけに俳句を作る人がふえてくれたら、最高です。

2020年01月

キスマイ千賀(ジャニーズ)の句である。 
この句の面白さは、「雪の滑走路」という視覚的なものと「黒革の匂い」という嗅覚的なものとのぶつかり合ったところにうまれるリアリティの新鮮さである。
脈絡のない言葉のぶつかり合いは、わかりすぎるものではだめ。いっけんわからないようなものをぶつけ合うこと。それで、「ああ」とわかってもらえるものであれば、その効果は倍の力をもつ。
「雪の滑走路」、の雪には、匂いはない。匂いのない美しさは、どちらかというとフィクショナルである。ようするに、写真を見るような美しい情景があるばかりである。
それだけでは面白くない。
美しい情景にリアリティを与える必要がある。リアリティを与えるのがこの場合、匂いなのである。しかもクセのある匂いである。
クセのある匂いというものは、強烈なインパクトがある。生理的にイメージを喚起させる力がある。
美しい雪とは対照的に、クセのある黒革の匂いを持ってきた。作為的に美化したりしない。だから飾り気のない現実感が見えてくるのである。
そこがこの句の成功要因といってよい。

「大原雑魚寝」とは、節分の夜、京都大原井出町の江文神社で参籠通夜に行われた乱婚の風習をいう。
昔、大原村の蛇井出に大淵という池があり、大蛇が住んでいて里人に危害を加えたため里人は避難の目的で一ヶ所に集まるようになり、乱婚が行われるようになった。これが風習化したものという。江戸期、西鶴の「好色一代男」にも出てくるほど有名であったらしい。
大原雑魚寝に限らず、筑波山の「かがい」をはじめとして、かつての日本では、乱婚(フリーセックス)の風習は「豊穣祈願」ということで各地で行われていた神事なのである。
しかしながら、これらの風習は風俗上問題があるとして明治に入り廃止され、今は昔語りとなっている。
だから「大原雑魚寝」は冬の季語として残っているものの、実際にはその光景を見ることはできない。掲句、夏井さんの句もまた、その昔語りをイメージして、今の感覚で詠まれている。
乱婚から多くの子が生まれた。空で「星のいま生まれ」るように、神さまの思召しによって、人間界は多くの産声に包まれていたことであろう。そんな時代を想い描いている。

テレビ「プレバト」より。作者の千原ジュニアは、お笑いタレント。
パティシェとはお菓子を作る職人のことをいうが、もっと拡大解釈して、個人経営のお菓子店のオーナーといってもよいかもしれない。
いつか顔なじみになっていた洋菓子店のオーナーとの会話。今日は我が子と一緒だ。
このシチュエーションだと作者(父親)本人がそこにいるというより、どちらかというと母親がそこにいて、聞かれてニコやかに子の名を告げたというほうが、ふさわしいようにおもう。
我が子が可愛いくてたまらない母親。だから時間が許す限り親と子は一緒に行動するのだ。
「お嬢ちゃんのお名前は?」
そう聞かれ、子と一瞬目で合図をして、パティシェに答える母親。
洋菓子店の甘い雰囲気と冬の暖かい日ざしが混じり合ったくつろぎの時がそこに流れてるゆく。
こういう句を読むと、我々一般人とタレントもそう違いはないのだということに気付く。
昨年秋ごろ、吉本興業の何人かのタレントが反社会的な組織の会合に呼ばれて、結果としていくばくかの報酬をいただいて問題になった。
売れないお笑いタレントの側からすればギャラは少なく生活するのが大変なんだということがいわれ、同情される余地もあった。
この報道を聞いたとき、そうか、芸能界もわれわれの一般人の世界と、そう変わらないなと思った。この句の作者、千原ジュニアさんは、そういう芸能界に身を置いている。だから、一般人の感覚とそう変わらないのだ。



作者は、最初のトーキー映画を監督した庶民派の名匠。1902年生まれ、1981年に亡くなられている。久保田万太郎の「春燈」に所属して俳句を作っていたことでも知られている。
映像の焦点の絞り方や、二句一章のモンタージュ的な手法など、俳句と共通するところが映画制作にはけっこうあるのかもしれない。
それはさておき、五所さんの掲句である。
上五「海の日が」は、もちろん海の上の太陽を指す。それが「眠たさ誘う」というのだから、とろりと溶けたような気だるい陽光が、陽射しや暖かさを振りまいているのであろう。
足元には、季節を教えてくれるように可憐な「冬すみれ」が、見晴らしのよい場所にたくさん咲いているという。
すみれはふつう春に咲く花だが、冬に咲いているというから、気候温暖な地域が想像される。太平洋側の、伊豆あたりで
詠まれた句かと思う。
太陽(という巨大なもの・宇宙的なもの)と冬すみれ(という微小なもの=ミクロコスモス)の取り合わせが面白いのである。
大と小が互いに呼応しあって、そこに自然の調和というものが生まれる。
冬ながら、春めいた温暖さにこころ癒される作者がいるし、読者もまた同じような気持ちにさせられる句である。

廣瀬さんは、飯田龍太の一番弟子だった。いや、福田甲子雄さんのほうが一番だという方もいらっしゃるかもしれない。ともかく、このお二人、どちらが右腕で、どちらが左腕。ともにいなくてはならない存在だったことに変わりはない。ともに、先年亡くなられた。残念である。
さて、掲句。この句の季語は「正月の雪」だ。新年の雪というだけで、新鮮な雪がイメージされる。
真清水は、濁りのない純粋な水のことをいう。川であろうか、泉であろうか。マシミズという響きもよい。
雪と水が、ともに新鮮なうちに混じり合う。混じり合うことで、イキイキとした自然の息吹がそこに生まれるように感じられるのである。
その光景を見るということは、まことに寒い地点に立たねばならない。しかしその寒さを忘れさせるような自然の息吹の「新鮮さ」があり、そこに感動が生まれるといっていいだろう。
いままさに「新年」が始まったのだ。その感動にすべては収斂される一句なのである。
夾雑物をまったく持たない、シンプルさがこの句の身上である。
この感動を、いくつになっても失いたくないものである。
2020年が始まった。

巷では、元日産の会長、カルロス・ゴーンが、日本で保釈中の身ながら国外逃亡に成功、いまレバノンにいるという。年の始めにそんなニュースが流れた。
その彼が、自分が捕まった背景を記者会見で説明するという。どんな話がとびだすか?
また、アメリカとイランが緊迫した状態になっているというニュースがある。
世界は動いている。ただし、悪い方向にだけは動いてほしくないものだ。

このページのトップヘ