小島てつを「人生が見えるから俳句は面白い」ブログ版

最近、最新の優れた俳句とその作者を紹介し、俳句の幅の広さ、その奥深さを堪能していただけましたらありがたいです。これをきっかけに俳句を作る人がふえてくれたら、最高です。

2019年10月

この句でいう「かの記憶」が何を指すかも、わかりにくくなってきた時代だ。もちろん作者は、いっけん曖昧な表現で、「あのこと」を言いたかったのだろうと思う。
緑蔭といえば夏だ。夏といえば、その時代を生きてきたものからすれば、あれしかないだろう。「戦争」である。8月15日、日本は戦争に敗れた。ただ、その時代を知るものは、戦争と観念的に括られるのは、嫌なのだと思う。
あの戦争の時代、普通の男たちはいやおうなく戦場に駆り出された。が、実際は赴く中で船とともに沈んだものも大勢いるし、死ぬためだけに南方の島に連れて行かれ「立派に戦死した」ものもいる。
あるいは、戦場に立ち、「敵」を殺戮したものもいただろうし、殺戮された友もいただろう。世にも恐ろしい原子爆弾の記憶をお持ちの方もおられるかもしれない。
筆者もそうだが、戦争を体験として知らないものにとっては、「戦争」というものをカギカッコで括って見てしまうところがある。が、昭和6年生まれの山崎さんの場合は、昭和10年代はまだ子供だったが、子供ながらにその時代を生きておられたから、体験として感じることは多いはず。
だから、作者は「戦争」と具体的にはいわず、「かの記憶」と大きくすくい取ったのだと思う。
いまは緑蔭に憩うニ、三人だが、そういう時代の記憶が鮮明に残っている。しかし、あえて声に出して語ろうとはしないで、今を生きている。
緑蔭は記憶のすべてをやさしく癒してくれる場になっている。ドラマをみるようなワンシーンである。作者は「響焰」主宰。響焰 2019.11

句集「雪降る音」。その帯文で、高橋睦郎さんは「目の欲望の過剰がみじんもなく、寡欲から生まれる豊饒は潔い」と書いているが、言葉を超えた光と影の織りなす叙情性あふれる句に魅力があるように思った。作者は1958年生まれ。現在、山崎ひさを主宰「青山」同人。

眼の奥の冬草もつとも暗くあり

目の奥というから、現実を陰画で見ているような幻想的な風景が描かれる。その最も暗いところに冬草がそよいでいるのが見えるのだろう。

秋分のおほきな木蔭ありにけり
この句、木蔭が暗喩的。秋分の頃は、徐々に冬の脚おとが聞こえてくるころだ。
ブラックホールのような存在感のある木蔭が意味するものは何だろう。

どんど火の闇華やかに海の音

目の前のどんど焼の炎は夜の闇の中に燃えさかる。その華やかさ。華やかなゆらめきだが、そこに海の音が重なっているという。闇華やかという言い方によって、炎の色はあまり強くは感じられない。

陽光を浴びて地獄の釜の蓋

この句の陽光もあまり強い日差しではない。地獄は寓意的だ。

雪のひかりにひとつづつ扉を閉めて

ここで言う「雪のひかり」は、まばゆいひかりを表しているものの、ひかりそのものは、しんとしたしずかな色あいを帯びている。ここには作者の冷めた眼差しが感じられる。

以下の句は作者自身、母との別れを詠んだものと思う。

雪降る音母を隠してしまひけり
黒揚羽ははなき吾を過ぎてゆく

このように作者は光と影の構図を好んで作る句が多いものの、影の部分の方が強いために、俳句の世界は光を描きつつも、まるでムンクの絵を見るようなモノクロームの世界が広がっている。ムンクの絵画は、日本でいうならば、中世に多く描かれた水墨画の世界だ。
この句集は、平成30年までの10年間の作品を収めているが、この時期ご両親との別れがあったという。そういう場に立っても、作者の詩情は寡欲であり続けている。寡欲の裏には、表には出さないものの、まことに強靭な美学が存在していると感じた。

秋風はかつと差す日の中にあり

強烈なインパクトがあるものの、水墨画的な静かな句である。
世界も日本も、経済から文化に至るまでいま大きな曲がり角にあるように思う。その要因はインターネットの普及にある。
いまはまさに小川国夫言う「静かな熱狂」の時代を感じさせる。
本書はそういう時代らしい句集だと思った。

句集「雪降る音」2019.9


この句も「未来図」2019年10月号に載っている。同人作品評ということで、同人の大久保昇さんが取り上げているが、確かに印象深い句である。
乗り、といい、遊ぶ、という。動詞を畳み掛けることで、句に花吹雪らしい動きが生まれたことで、この句成功したと思う。

結社誌に載る投句というのは、知友の場所は別として、作者の情報はほとんど載らないためわからないのである。掲句の作者もまた筆者にとっては、全く未知の方である。年齢はおいくつぐらいか、どこに住んでおられるのか、男性か女性かも不明なのである。
筆者は作者のことを知らないため、パーティの会場などでふいに声をかけられ、そのイメージの違いに驚いたことたびたびである。「虚子」以来、男性の名前に「子」の文字が付くことも多くて、そういうことでも混乱したことたびたびだ。この作者の「かつら」というお名前からその性別を判断することも難しいのである。
作者のそんな属性はどうでもいいだろうといわれれば、まあ、どうでもいいのだが、よい句に出会うと、ついどんな人が作ったんだろうと考えてしまうのは人情ではあるまいか。鑑賞する上では、知らないより知っているほうが有利であると思う。
情報の多い今の社会はストレス社会だ。常にいざこざがつきまとう。そんなつまらないいざこざなんてものはリュックにしまって、目の前に繰り広げられる「遠花火」という美しいものに酔いしれていたい「現在」。
同時掲載の句、

夏空に雲の作意のひとつ見る

も頷ける。夏らしい入道雲など見るとそんな思いになる。未来図 2019.10

昼寝も眠りが深いと、目覚めた時、眠る前のことなど忘れて、ぽかあんとしてしまうことがある。
昼寝とは、主にまだ陽のある午後に短い時間睡眠をとることをいい、動いていた身体を急に寛がせるためか、かえって眠りが深くなることがあるのであろう。
この句、「利き足のさてどちら」といういささかとぼけた問いかけの言い回し利き足など自分はよく知っているくせに、不意にそれを忘れた。実際、思い出せないことがある。そこが面白いのである。ここにあるのは、たれにというあてのない問いなのだ。いかにも昼寝から目覚めた瞬間の心許なさがうまく表現されていよう。作者は、結社「鳰の子」主宰。
鳰の子 2019.10・11

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