小島てつを「人生が見えるから俳句は面白い」ブログ版

最近、最新の優れた俳句とその作者を紹介し、俳句の幅の広さ、その奥深さを堪能していただけましたらありがたいです。これをきっかけに俳句を作る人がふえてくれたら、最高です。

2019年08月

季語「秋思」は、「秋の寂しさに誘われる物思い」であると歳時記は解説している。心理的な季語なので、扱いにくい。最近のこれはという俳句は、「秋思」の持つムードなどを語らず、「秋思」という言葉そのものをうまく使って、俳句を面白くする傾向がある。この句の場合も「秋思」をまるで衣類かなにかのように捨てたり畳んだりするという扱い方には、巧みなワザを感じる。
それにしても畳まれた秋思はどこでどうなっているのだろうと思い、そう思う自分に気づいて微苦笑してしまうのである。深読みすれば、秋思とは思い出のことを指しているのかもしれない。捨てられる思い出もあれば、畳まれて大事に胸に保存される思い出もある。幼いころの思い出もあれば、恋の思い出があるかもしれない。いつまでも抱えてはいられない思い出も、人生には確かにある。
句集「貝塚」より。

いま、埼玉県に住む筆者は、郷里、栃木県に帰るときは必ず利根川をわたる。いわば利根川は県境のようなものなのだ。現在はそれほどではないが、水量も多く広々としているところから江戸期には関東を代表する河川として「大利根」「坂東太郎」などといささか大仰にいわれたりした。その名残りが現代にも続いている。
筆者はその橋を渡るたびにこの句を思いだし、声に出す。
俳句は、作った人の自己満足ばかりで、やがてはシャボン玉のように消えて無くなる、というものではないと筆者は思っている。俳句は複数の仲間と膝突きあわせて句会を催す。当然、そこで多くの人の目に触れる。良い句、好きな句、変な句など、選んだ人が頭の片隅で覚えていることはよくあるのである。で、思わぬところで思い出したりする。
そういうふうにして俳句は生き続けるものと思う。
作者も栃木県に住んでおられた。
東京へは蘭という結社の本部句会が銀座で月1回行われいたから、たびたび上京していた。そんな折の電車の車中での嘱目だろう。大利根の水の流れを見にきた銀やんまというのはじつは作者本人のことをいっている。そこに銀やんまを持ってきて、銀やんまが秋空に弧を描いてのどかに飛んでいる光景としたことで、いかにも俳句的で面白い作品となった。
句集「長堤」所収。


暑い日ざかりのとき、人は憩うため木陰を探す。特に、ビル街など歩いているとき、いやおうなく日おもてを歩くことから逃げられないし、赤信号のときなど日のさす中でイライラするぐらい長い時間待たされることが多いのである。
そんな時、街路樹をみつけると足が知らず知らずそちらに向かっていることがある。
街路樹はといえば、年中日おもてに体を晒しているわけで、ちぢみあがるほど、暑さに耐えているというわけである。作者の足元に映る街路樹の影がちぢんでいるように見える。それは、まだ暑い日が続いていることを物語っているのだ。
深吉野 2016.8

浜名湖近くに暮らす作者。五山というから、京都を歩かれたのであろうか。五山は古刹の中でも由緒ある寺院にのみ与えられた勲章である。南禅寺、妙心寺や大覚寺など五山と呼ばれるのかどうか。
そんな寺領を散策していると、不意に鐘の音が聴こえてきた。音色に、暑い時期には気付かなかった爽やかさが感じられるようだ。響きにそれこそ透明感のようなものが感じられる。これを「秋意」というのだろう。五つの寺の梵鐘の響きは、それぞれ、わずかずつ違うようだ。当然ながら、その鐘の響きから生まれる「秋意」も、それぞれ微妙に異なるのである。それを聞いて心を慰める作者。
尺八演奏を趣味とした作者らしい、響きにこだわった句である。
虹 2014.8

かつて俳文学者の山下一海さんは、与謝蕪村の句を歌うようだと指摘していた。(この点、記憶違いでしたらご容赦ください。近日中に原典にあたります。)
このことを思い出したのは、岩淵喜代子さんの自句自註を読んでいて、素朴に感じた第一印象が、歌うような句が多いのではないかということである。例えば、
春窮の象に足音なかりけり
や、
すかんぽを国津神より貰ひけり
浜豌豆(えんどう)咲けばかならず叔母が来る
桔梗(きちこう)の花に折目や湖(うみ)暮るる
そして掲句などを見るとわかると思うのだが、いかがだろう。
句の意味が分かりずらい分、逆にリズムが素直に感じとれる。筆者は、決して岩淵さんの句が難解だと言おうとしているわけではない。否、むしろ分かりやすい方に分類される俳人であるが、時折見せる分かりにくい句が、もう一つの味わいを醸しているのである。虚と実との重層的な作句工房は、まことに現代的なのである。
掲句である。黒揚羽という存在を、まるでその存在自体が「うそ」のように現実的なものではない。あるいは「影」のようにまったく目立たぬもの、というのである。ここまで無化された黒揚羽というものは、むしろ妖怪のように怖い存在なのだと作者は言いたいのかもしれない。



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