小島てつを「人生が見えるから俳句は面白い」ブログ版

最近、最新の優れた俳句とその作者を紹介し、俳句の幅の広さ、その奥深さを堪能していただけましたらありがたいです。これをきっかけに俳句を作る人がふえてくれたら、最高です。

2019年06月

俳句で花といえば桜のことをいうというが、この句の花は「梅雨湿り」という季語から梅雨どきに咲く花ということになる。花はどんな花でも良い。逆さまに落ちていることの悲しみを言いたかったのである。ここ数年、ひでり梅雨が多かったようにおもうが、今年の梅雨は梅雨らしい梅雨どきを迎えている。明日で6月が終わるが、関東地方は例年7月中旬まで梅雨は続く。同時掲載の、

    山廬近し茅花流しの土手つづき

であるが、山廬は、先師蛇笏・龍太のいた家。懐かしさの広がる一句である。
郭公2019.7


牡丹は大輪であり赤や黄色、白など色彩的にも華やかそうに見える花だが、花肉は薄く、なんとなく淡い花という印象もある。花壇などでも牡丹の花はたくさん咲いていることが多いから、この句、花から花へというわけである。虻もそうだし、「てふてふ」(蝶々)もそうだ、という。虻は見た目あまり綺麗ではない。蝶々は見た目からして綺麗である。そういうふうに多くの虫たちにとって、惹きつける盛りのころの牡丹の花は蜜の宝庫なのだ。詣でるように虫たちが寄り集まってくる光景が目に浮かぶようである。作者は「青林檎」「花鳥来」所属。

新詩歌句年鑑2018*小島てつを評

「死を思え」、確か「メメント・モリ」というのだとずいぶん前に藤原新也のエッセイで知った。生まれ変わりというのは、夢物語としては、大変面白い。人間は誰も(一部の例外をのぞいては)あの世から生還した人はいないから、死は自我の消滅ということになっている。それにたいし宗教は、そうではないという。あの世で幸せに暮らしたかったら、この世で良いことをたくさんしなさいという。盗みをしてはいけない、人を殺してはいけないなどのモラリスティックなタブーがいわれるようになる。まあ、宗教の話は置くとして、この句、作者も死を思う年代になって考えることがあるのであろう。そんなとき、百日紅が見えたのだ。筆者は、もう数十年前のことだが、大学の卒論で連歌師の宗祇をテーマにし、まずは墓参りをと、富士の裾野の墓に詣でたが、墓石の脇に立つ百日紅の花が咲いていたのが印象的であった。花びらの赤はけっして華やかな赤でなく、慰めるような淡い赤だとその時知った。

新詩歌句年鑑2018*小島てつを評

凍てついた冬の水は鏡のように透き通っていた。しかし季節が徐々に冬から春へと移り始めるなかで、暖かさを増すとともに池の中でもいろいろないのちの営みが徐々に始まり、何となく慌ただしくなって水も濁って感じられてくる。ここまでは、自然のこと。
この句の面白さは、ここで浄瑠璃寺というお寺の名前を出し、場所を特定したことだ。残念ながら、筆者は 浄瑠璃寺には行ったことがないから、踏み込んだことは言えないが、あの堀辰雄の大和路のエッセイを思い出し、ロマンチックな雰囲気に浸ることができたように思う。

たかはしさんは、子がまだ小さいときに亡くされている。30年以上前のことと記憶する。その子の姿を涅槃図の中に見出したというのである。見出したことで、母としては安堵のような心が感じられたことであろう。「涅槃図の隅」と、いささか遠慮がちにいうが、隅っこであっても、諸神のそばにはべれれば、それはそれで悟りの世界に入ったということである。すごいことだ。OPUS 2019.5

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